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MGR-1 (ロケット) : ウィキペディア日本語版
MGR-1 (ロケット)

MGR-1 オネスト・ジョン()は、アメリカ合衆国初の核弾頭搭載地対地ロケット(弾)である。想定された主な用途は戦術核攻撃であったが、核弾頭の代わりに通常の高性能炸薬弾頭を搭載することもできるように設計されていた。当初の制式名は基本型がM31、改善型がM50であった。
オネスト・ジョンは、1951年6月に初めて試験され、1954年から在欧米軍に配備された。当初は臨時的な配備を予定していたが、運用が簡単で即応性が高かったことから、地対地誘導ミサイルが次々に代変わりしていく中、30年弱にわたって運用され続け、アメリカ陸軍では1982年に退役した。
「Honest John」は日本語に直訳すると「正直者のジョン」という意味になるが、米軍では若い新兵を当人の本名にかかわらず「Hey,John!」と呼ぶ場合があるので、意訳すると「命令に忠実な新兵」ということになる。この愛称は「狙いどおりに命中してくれる」という含意でもある。
== 開発 ==

=== 基本型オネスト・ジョン ===
オネスト・ジョンの開発は、1950年5月アメリカ陸軍武器科長官房局 (Office, Chief of Ordnance, OCO) が、レッドストーン兵器廠に特殊用途の大型野戦ロケットの予備設計研究に関する責任を割り当てたところから始まった。1950年の秋から大型野戦ロケットの予備設計作業が始まったが、コスト削減と開発期間短縮の手段として、まだ使える在庫資材の最大限の使用が議会の決定によって規定されていた。1950年9月、陸軍武器科長は大型野戦ロケット計画を陸軍省プライオリティIAで確立し、その翌月には初期設計研究が完了して大型野戦ロケットの実現性実証モデル5基の組み立て作業が進行中であった。OCOは、1950年10月26日に予備研究のためにダグラス・エアクラフトと契約し、同年12月には、すべての関係部局と契約者の活動の調整を含む技術監督をレッドストーン兵器廠司令官へ移した。また、それと同じ時期に大型野戦ロケット計画は当時のレッドストーン兵器廠司令官オルガー・N・トフトイ准将によって「オネスト・ジョン」という名称を与えられた。
1951年1月に陸軍次官は先の1950年10月26日の契約を補助する形でダグラスとの正式な契約を承認した。契約の主な目的は、組み立てユニットとしての実際の構成要素の設計、開発、製造と試験を通して武器システムの実現可能性の確かな証明を示すことであった。
5基の実現性実証モデルの飛行試験は、ホワイトサンズ性能試験場1951年6月29日から8月7日に実施され、この試験で誤差は大きいものの、単純な無誘導ロケットとしては許容できる精度で1,500 lbのペイロードを20,000 yd(約26.5 km)の距離に到達させることができることを証明できた。陸軍長官をはじめとする陸軍幕僚はオネスト・ジョンの単純さと精度を評価し、開発計画の最大限の加速を指示した。オネスト・ジョンの正式な手続きを踏んだ要求仕様は、計画の加速が指示されたほぼ1ヵ月後の1951年8月25日に形式的に確立されたことからも当時の陸軍幕僚の評価の高さがうかがえる(本来の順序は反対)。アメリカ陸軍武器科とダグラスのチームによる最初の試験モデルの設計から開発、製造、組み立てまでわずか9ヵ月未満であったことからも、これは顕著な成果と言えた。そのうえ、最初の試験飛行が最も成功していた。一連の試験結果から、基本型オネスト・ジョンは非常に精度の高いシステムとして技術的実現性が認められ、1951年8月から臨時の非常用兵器として基本型オネスト・ジョンの全規模開発 (Full-Scale Development, FSD) が始まった。
1952年6月2日、ダグラスは、設計図面の作成と仕様の調査だけでなく、新たに再設計されたロケットの試作50基の製造契約を与えられ、更に同年6月16日に基本型オネスト・ジョンの最初の限定生産契約を受領した。限定生産の基本型オネスト・ジョンは、XM31と呼ばれ、1953年1月に、アメリカ陸軍に納入された。
1952年11月、レッドストーン兵器廠は、オネスト・ジョン2,000基の大量調達が承認された1953会計年度の計画を実行し始めたが、オネスト・ジョンにおける技術的な進歩が全規模生産を正当化するのに十分でないという理由で陸軍武器科長は追加の精度試験を要求し、調達数を200基に減らした。1953年6月に実施された20回の追加飛行試験の完了で初期の技術的な不足が修正されたことが示され、基本型オネスト・ジョンは、その軍用性能を完全に満たした。これを受けて1953年9月1日、基本型オネスト・ジョンはXM31からM31に変更され、研究開発の成果である最終的な試作図面と仕様が残りの1,800基の調達のために発簡された。これによりオネスト・ジョンの全規模生産へ移行すると同時に製品改善及び生産プログラムが始まった。サービス・テストの完了までサブスティチュート・スタンダード(仮標準)であった。ダグラスは、1954年1月に最初の量産基本型オネスト・ジョン・システムを納入し、同月193回目の研究開発飛行試験が完了した後、M31 オネスト・ジョンの開発は終了した。
レッドストーン兵器廠は1954年1月22日、ダグラスと共にエマーソン・エレクトリック・マニュファクチャリング社にオネスト・ジョンの主要な共同契約者として1954会計年度契約を与えた。エマーソンは、オネスト・ジョンの二次供給者として1954会計年度に1,800基調達の半分の900基を生産することになるが、一方ダグラスは、1954会計年度調達分の残り半分の900基の生産契約を1954年4月2日に結んだ。同社はまず最初に、ダグラスで描かれたすべての機械製図の凡例の内容を制限することによってエマーソンによる競合契約を防ごうとした。陸軍武器科長は、アメリカ陸軍武器科所管の図面の凡例の内容を制限することが重大な契約違反であることを書面でダグラスに通知するよう契約担当者に指示することでこの論争を解決し、以降の図面の凡例が適切に取り扱われるようにした。しかし、この後もダグラスとの契約関連争議は尾を引いていくことになる。
1954年1月28日から3月3日の間に実施された24回の兵器システム試験は、模擬戦術状況下でオネスト・ジョン・システム全体の適合性と精度を測定するために、ホワイトサンズ性能試験場で実施された。オネスト・ジョン・システムが野戦砲兵の運用に適したものと見込まれていたが、大幅な改善が必要と判断され。1954年7月に基本型オネスト・ジョンの大きな不足を修正するのに必要な構成要素の変更の完了後、その改善は証明された。
1954年の春、オネスト・ジョンは、臨時のシステムとしてヨーロッパに配備された。これは、アメリカ合衆国初の戦術核兵器であった。1954年6月1日、最初の8つのオネスト・ジョン中隊の配備が完了した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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